全国ダイバーシティ・ネットワークダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ(牽引型)

【コラム集】
阪大初の女子学生入学から90周年・初の女性教授誕生から40周年(2025)

2025年は、大阪大学にとって初の女子学生入学から90周年・初の女性教授誕生から40周年。 このメモリアルイヤーを機に、「女性」という観点から大阪大学の歴史をふりかえり、 今後のD&Iについて考えつなげていくための連載コラムです。

「コラム連載を始めるにあたって」島岡まな(大阪大学副学長・D&Iセンター長)

本年2025年は、日本の「女性差別撤廃条約」批准から40年、北京女性会議から30年の記念すべき年です。また、大阪大学に初の女子学生が理学部に入学してから90年、初の女性教授が基礎工学部に誕生してから40年の節目の年でもあり、歴史を振り返りつつ、大阪大学構成員の皆さん全員と共に、さらに前進する決意を新たにしたいと思います。 ご存じのように、世界経済フォーラムが毎年公表する日本のジェンダー・ギャップ指数の順位は、2024年は146カ国中118位で、主要先進国とみなされるG7では最下位、OECD加盟国38カ国中37位と、非常に低い状況です。この現状を変えるには、大学や社会の構成員一人一人がジェンダー不平等の解消を「自分ごと」として捉え、超少子高齢社会である日本の死活問題として、真剣に改善に取り組む必要があります。 大阪大学でも、2016年度~2021年度の文部科学省補助事業「ダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ(牽引型)」や2018年度~2024年度の「同イニシアティブ(全国ネットワーク中核機関(群))」(共にS評価)等を通じて、様々な支援事業、環境整備を推進してきました。2021年のダイバーシティ&インクルージョン(D&I)推進宣言やその他の宣言、様々な取組については、ぜひD&IセンターのHPをご覧ください。 これから、理系や文系の各部局における女子学生や女性教員をめぐる印象的なエピソードを紹介するコラムの連載が始まります。私も大変楽しみにしていますが、皆さんもぜひご期待ください! (大阪大学副学長・D&Iセンター長 島岡 まな) コラム特集ページ

着物を着て左方向に向かう女性表象の人物イラストとタイトルの文字

「女子阪大生」は理学部から:はじまりとつながり

「大阪帝国大学」が設立され4年目、1935(昭和10)年の春、入学した305名の中に、大阪大学初の女子学生(※1)、中野冨子さんがおられたそうです。その年から今年で90年になります。 冨子さんが入学したのは理学部数学科。今残る当時の写真には、和装の冨子さんが男子学生の中一人で写っておられます。昭和10年という時代背景を鑑みるに、たった一人で大阪大学に入学された冨子さんの勇気と、恐らく溢れんばかりの才能と、抑えきれない好奇心が慮れます。 理学部とは、未だに解明されていない様々な科学現象の仕組みや法則などを研究する学部です。「何故こんなことが起るのか?」という素朴な疑問に対して、数学や理科の知識を積み重ねて解明していくことに喜びを感じる人々が学び、研究する場所です。勉強や研究を「楽しい」と感じることは、 人としての基本的な好奇心であり、欲求でもあると言えるでしょう。「知りたい」という欲求こそが、冨子さんを始めとする我々理学部の徒がここに集まる源です。 時代を超え、今の大阪大学理学部には多くの女子学生が通学しています。この原稿を書いている今も廊下から明るい女子学生の声が聞こえてきます。現在の女子学生は理学部では229名です。全体の学生数に対しての割合は約20%です。冨子さんの時代、0.3%から比べると格段の差であり、時代の流れを感じます。それでも世界的な理系大学の標準に比較するとまだその割合は低く、ほぼ半々である社会の男女比からすると、まだまだ少ないと感じずにはいられません。 このコラムを書いている赤井も30年前に理学部を志し、女子学生となった一人です。理系に進学するにあたって、心配もありましたが、迷いはありませんでした。それには高校の時の、ある女性の数学の先生の存在が大きかったです。私の理科好きをとても応援してくれ、授業もとても判りやすく、格好よい先生でした。師範学校時代の冨子さんも、師範学校時代の国語の先生が実際に帝大に進学したという経験をされたそうです。そのような身近な大学進学する女性、いわば「ロールモデルの存在」が少なからず影響を及ぼしたでしょう。  大阪大学理学部では今「ロールモデルの存在」を少しでも身近にする取組みを進めています。例を挙げるとオープンキャンパスでは、女性研究者や女子学生たちが自身の生活やキャリアをお話しする「女子高校生のための講演会」や、次世代の女性達がもつ理工系分野へ進学することの不安や疑問を受け止め共に考える「女子大学院生による女子高校生のための相談コーナー」を大切にしてきました。動画(「大阪大学理学部・理学研究科紹介」「学生に聞いた!大阪大学理学部・理学研究科」など)やネット記事(「先輩を訪ねて」シリーズなど)を通して多様な姿を届けることにも力を入れています。 こうした取り組みを続けるのは、単に「女子学生数」を数値目標に近づけたいとか、あるいは女性は「支援してあげないといけない対象」だと思っているからとかではありません。大阪大学理学部は、   一見自明に思える事柄に対しても「なぜ?」という疑問を抱いてその根源的理由を探ろうとする(学部の求める学生と教育方針) 人たち、を求めているからです。 たとえば大阪から離れたどこかで、いまだ地域の大人に根強く残っている「女子は手近な、浪人リスクを負わないような大学を受けるほうがいい」という“常識”に対して「本当にそれがいいこと?」と思っているあなたや、たとえば厳しい経済状況の中で、「男兄弟の進学・院進にかかるお金のほうが、姉・妹より優先して心配される雰囲気」が“当然”にされそうでも「どうして?」と飲み込まれず留まるあなたたちをこそ、求めているからです。 かつて冨子さんも踏み出した、あなたのその大切な一歩が止まらぬよう、そして本当に好きなことを、本当に望む場所で学ぶことができるように願っております。 (※1)本稿では、過去の資料において「女子学生」として取り上げられ、あるいは集計されてきた人々を「女子学生」や「女性」として扱う。未だジェンダーバイアスが様々な形で残る社会における「女子学生」や「女性」のエンパワーをめざしてのことであるが、資料に限りがあり、一方的に「女性」として扱っている点、また、当人らの中では「女性」というアイデンティティと切り離しがたく存在していたかもしれないたとえば人種や出身地、障害や社会階層等々の属性については何ら調査・言及できていない点など、別の抑圧につながり得る形となっている。この点への批判は甘んじて受け入れ、継続的課題としたい。 参考文献 ■『大阪大学二十五年誌』、1956 ■中野冨子、大西愛「戦前の女子入学と大阪大学 : 中野冨子氏に聞く」、大阪大学五十年史資料・編集室編『大阪大学史紀要(3)』1983、pp.70-76 コラム特集ページ

人々の健やかな暮らしを支える ― 適塾の精神を継ぐ保健学科 ―

歴史に根ざす保健学科と多様な人々を支える人材育成 私が所属する大阪大学医学部保健学科は、看護・放射線技術・検査技術の分野において、実践的かつ高度な教育を提供し、高度医療専門職・研究職として社会に貢献する人材の育成を目指しています。1838年に緒方洪庵が開いた適塾を源流とする日本の近代医学教育の草分けの精神を礎としており、西洋医学の黎明期から築かれてきた人と向き合う姿勢や実践重視の考え方は、今日の保健学教育にも脈々と息づいています。中でも、明治9年(1876年)に始まった助産師教育は、日本最古の歴史を有し、命の原点に関わる支援や、女性の健康を支える取り組みを長年にわたって担ってきました。出産や育児を含むライフステージの重要な時期を支える専門職の育成は、女性の健康と権利に寄り添い、その活躍や社会参画を後押しするものでもあります。こうした取り組みは、性別や背景にかかわらず、すべての人の尊厳を大切にするという、現代におけるダイバーシティ推進の価値にも通じています。伝統あるこの環境で、変化し続ける社会課題や価値観の多様化に向き合いながら教育・研究を進められることに、深い意義を感じています。 地域での実践、キャリアの中断と再出発、教育・研究者としての現在 さて、ここで私自身の経験について少しお話させていただきます。私は阪大保健学科第1期生として卒業後、海外大学院を経て、約8年間にわたり保健師として地域の現場で公衆衛生看護の実践に携わってきました。地域で出会う人々は、家族構成や生活環境、価値観が実にさまざまで、画一的な支援では真に必要とされるサポートにはつながらないことを、日々実感してきました。特に近年では、共働き世帯やひとり親家庭、高齢者の独居なども増加し、益々複雑化・個別化する健康課題に柔軟に対応する力が求められています。一方で、私自身も仕事と家庭の両立に悩んだひとりです。医療従事者であっても、病気がちな子どもを育てながらの生活は想像以上に困難であり、日々変動する娘の体調への対応と業務との調整を重ねる中で、次第に無理が重なり、結果として職を離れる決断に至りました。それでも、キャリアを中断したくないという思いから学生の立場に戻り、博士後期課程へと進学。多くの方々に支えていただきながら、教育・研究の道を歩むことができました。現在は、看護・保健学の教育に携わるとともに、高齢者を対象とした地域ヘルスプロモーションに関する研究に取り組んでいます。本専攻には女性教員が比較的多く在籍しており、それぞれが育児や介護、心身の健康、さまざまなライフイベントに向き合いながらも、教育・研究に取り組んでいます。こうした日々の工夫や葛藤は、女性職員に限らず、多くの教職員にも共通しており、それぞれの立場でバランスを取りながら前向きに努力を重ねています。そのような姿は、私自身にも大きな刺激を与えてくれます。むしろそういった葛藤や経験は、教育や研究にいっそうの広がりと深みをもたらしていると思います。ただ、持続可能なキャリアの基盤として、周囲の理解、情報の共有、支えあうつながりは欠かせないものですが、そういった環境の整備・提供は、まだ十分とは言えない現実があるとも感じています。ダイバーシティの推進は、保健医療を含む社会のあらゆる領域において重要な視点です。私たちは、専門的知識と技術の発展に加え、社会や医療が抱える複雑かつ潜在的な課題にも柔軟に応答していく姿勢が大切と考えます。自分とは異なる価値観や、声を上げづらかったり気づかれにくい立場にある人々の状況を想像し、考え、行動できる力は、研究成果の社会実装においてその意義をいっそう高めることにつながるでしょう。 学生の皆さんへ 今、学びの途上にある皆さんも、悩んだり、立ち止まったりすることがあるかもしれません。でも、そうした経験もまた、将来きっと誰かの力になります。これから出会う人々や多様な価値観を尊重しながら、何よりも自分自身の気持ちにも丁寧に向き合い、焦らず一歩ずつ進んでください。私たち教員も、皆さんと共に歩んでいきたいと願っています。今後も、医学部保健学科において、人々の健やかな暮らしを支える教育・研究を通じて、包摂的な社会の実現に貢献していきたいと考えています。 コラム特集ページ

基礎工学部,阪大初の女性教授誕生から40年

 今から40年前の1985年,大阪大学に初めての女性教授が基礎工学部に誕生した.物理学者の望月和子先生である.望月先生は,1928年(昭和3年)仙台生まれ,幼少期以降は兵庫で過ごされた.太平洋戦争中,本土空襲が激化した1945年から奈良女子高等師範学校(奈良女子大学の前身)に通われ,1950年に旧制最後の学生として大阪大学理学部に入学,物理学を学ばれた.卒業時には楠本賞を受賞されたことから成績優秀であったことが窺われる.1959年,固体水素と固体重水素のオルソパラ転換に関する研究によって理学博士を取得された.日本の理論物理学分野において初の女性理学博士が誕生したのである.その後,望月先生は大阪大学理学部で助手を務められ,1964年に大阪大学基礎工学部助教授に着任,1985年に基礎工学部で大阪大学初の女性教授となられた.大阪大学をご退職後も信州大学,岡山理科大学で教鞭を取られ,奈良女子大学理事も務められた.湯川記念財団の「望月基金」は若手研究者の国際会議出席を助成するものであるが,これは望月先生の私財の寄付によって設立された.精力的に研究活動を継続されていた中で,2007年にご病気で急逝された.卒業生やご友人らによって纏められた追悼文集からは多くの人から慕われた温かいお人柄をも窺い知ることができるようである.  筆者は基礎工学研究科(※1)歴代二人目の女性教授(※2)と聞いている.2022年に着任した.望月先生がご退職されたのが1992年だから,30年もの長きにわたって基礎工学部・基礎工学研究科(以下,基礎工と略記する)には女性教授が居なかったことになる.なんということだろうか.阪大初の女性教授が誕生してから他の学部・研究科には少しずつ女性教授が増えていった.にもかかわらず,基礎工には望月先生に続く女性教授が存在しなかった.なんということだろうか(二回目).望月先生は誰の目にも明らかなる偉大な物理学者である.偉大過ぎて続く女性教授採用のハードルが上がってしまったのだろうか,はたまた女性研究者の方でも気後れしてしまう部分があったのだろうか,と想像してしまう.あまりにも長い間,女性教授を採用しなかったからか,基礎工は平凡な数学者である筆者を採用した.筆者は,幼少期から今に至るまで特に光る才能を感じたこともなければ,これといった取り柄もなく,志も大して高くない.息抜きが大好きだし,わりと,フツーの人である.振れ幅大き過ぎるだろ,と誰もがツッコミたくなるところだ.筆者は望月先生の偉大さを全く知らないまま特段のプレッシャーを感じることもなく基礎工に来てしまった.このコラムを書くために望月先生のことを調べ,研究者としても人としてもあまりに差があることに震えが止まらないが,筆者の存在によって後に続く人たちにとっていろんなハードルがかなり下がったのではないかとも思う.結果オーライということにしたい.  しかし,である.女性教授の数,あまりにも少な過ぎないか? 望月先生の学生時代よりも前は女性には大学への進学が認められていなかった.東北帝国大学が帝国大学として初めて女性の学生を受け入れたのが1913年,当時はなんと文部省が東北帝大にいかがなものかと物言いをつけるほどで,女性は女性だからという理由だけで学問の道に進むことができなかった時代があったのは事実だ.戦後から女性の大学進学率は順調に高まり,筆者が大学に入った1995年の大学進学率は男子55.6%,女子57.1%(女子の割合には短大進学率も含むので四年制大学進学率は男子の方がやや高い)で,進学率に大きな男女差はもう無くなっていた.しかしながら,大学に勤める教員の男女割合は未だにかなり男性に大きく偏っている.それも上位職になればなるほど女性の割合が小さくなる.もっと踏み込むと,国立大学,特に旧帝大(阪大を含む)ではその傾向が顕著である.因みに基礎工には女性教授は筆者たった一人しか居ない(※3).かつて女性に学問の道が閉ざされていたように,教授職もまた女性には与えられてこなかった歴史がある.基礎工学部を創設した正田建次郎先生は数学者で,ドイツに留学してエミー・ネーター先生に師事していた.ネーター先生は当時既に著名な女性数学者であったが,女性であるがゆえにドイツでは教授職を得ることができなかった.望月先生は阪大で初の女性教授になられたが,よくよく年代を確認してみると当時のご年齢は決して若くはなく,業績から鑑みても教授への昇格は遅かった(遅らされた)のではないかとも思える.こういう話は,残念ながらまだ昔の話として片付けられるものではなく,実は今でも聞かれる.過去の偏見をいつまで引きずるつもりだろうか.私たちは性別と特定の分野や職業を勝手に結びつけてしまうという脳の癖,バイアスを有している.バイアスは偏った‘常識’を生み出し,差別的現象を引き起こしてしまうことがある.STEMと呼ばれる分野に女性が少ないのもバイアスの影響に因るところが大きい.  科学(理学)と技術(工学)の融合をその創設の理念とする基礎工は,自然現象や社会現象の中に疑問を見出し,それを解明したり応用したりすることを目的とした幅広い研究を行う研究者の集う場である.臆することはない,ここはやりたいことをやりたいようにやる人たちがわちゃわちゃ自由にやっているところだ.バイアスの影響でSTEM分野への進学を躊躇してしまうかもしれない女子・女性たちの背中を押したいという気持ちから,基礎工では来年度の入試(学校推薦型選抜)から女性枠を設置した.今年3月には女性枠入試制度の説明も兼ねて,学部紹介イベント「女子高校生・女子中学生のための基礎工NAVI」を開催した.イベントは大変盛況で,多くの女子・女性たちが基礎工に興味を持っていることが分かったし,現役学生と直接話ができる時間もあって参加者からとても好評であった.  やりたいことをやりたいようにやる.そんな皆さんを筆者は心から応援したい.  本稿を執筆するにあたり,関係者の協力を得て,望月和子先生に関する書籍(参考文献の[2]及び[3])をお借りしました.この場を借りて心より感謝申し上げます. (※1)望月先生ご在職の頃は教員は学部所属だったが,大学院重点化によって望月先生ご退職後の1990年代半ばより教員は大学院の研究科所属となっている.(※2)(※3)クロスアポイントメント制度による特任教授,関連する他の研究科及び附置研に所属する教授を除く. 参考文献:[1] 望月和子,一人の女性物理学者としての歩み,日本物理学会誌,1990年45巻5号,p.p. 347 -- 349.[2] 望月和子著,女性物理学者が歩んだひとすじの道,大学教育出版,2005年.[3] 鈴木直監修,望月和子先生追悼文集編集委員編,望月和子先生追悼文集「一輪の薔薇に捧ぐ」,大学教育出版,2008年.[4] 湯川記念財団望月基金 http://extreme.phys.sci.kobe-u.ac.jp/motizuki/

大阪大学男女協働推進宣言

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