
高校1年生の冬です。文理選択のアンケートがあり、私は締め切り当日まで決められずに悩んでいました。看護師の仕事に憧れていたのですが、看護学科は文系・理系どちらでも受験できる大学が多いので、なかなか選べなかったんです。でも、理系出身の母が「どちらでもいいなら理系にしたら?」と勧めてくれて。担任の先生から「理系にチャレンジしてみて、難しかったら文転してもいいんだよ」と後押ししてもらったことも大きかったですね。
学部を決めたのも、担任の先生のアドバイスがきっかけでした。あるとき、模試の結果を見た先生から「薬学部に行けるよ」と言われて。もともと看護に興味があったので、同じ医療系の学部として自然に志望するようになりました。実は当時から、先生に「あなたは研究が向いている」と言われていたんです。でも私は、理科の実験で顕微鏡のピントを合わせられたことが一度もなかったし、「研究なんて絶対に嫌。向いてない」と思っていました(笑)。
自分が研究者になるなんて思いもしなかったし、母や先生に勧められなかったら理系に行くこともなかったので。先生にもしお会いできたら「あのときはありがとうございました」と言いたいですね。

1年生の始めの頃の授業で、そもそも新薬を作ることができる国は世界でも10~20ヶ国くらいしかなくて、日本はその中でも当時3本の指に入るほどのトップクラスの国だと知って、すごい!と感銘を受けて。それが薬学の世界にグッと引き込まれた瞬間でした。「日本が創薬で世界一になってほしい。そのためにアカデミアが頑張らないといけない」と講義のレポートに書いたところ、先生に誘っていただいて、研究室で実験のお手伝いをすることになりました。
はい。大学1年生の夏休みはほぼ毎日、研究室にこもりきりの生活でしたね。研究がとにかく楽しくて、「1年生なのにすごいね」と周りが褒めてくれるのもうれしくて。研究に没頭するうちに「もっとやってみたい」「もっと多くのことを吸収したい」と、自分の中で欲が出てきた気がします。
そうですね。朝から研究室に行って、夕方から深夜まで居酒屋でアルバイトをして、家に帰って寝て、起きたらまた研究室に行く。大学時代はバイトと研究しかしていなかったです(笑)。それまでは特技も趣味もなくて、人生でこんなに長く続けられたのは研究が初めてだったんです。きっと研究の魅力に強く惹かれていたからだと思います。

昔から父に「学校は学ぶ場所で、人を成長させるための場所だから、1日でも長くいなさい」と言われていたので、大学院に進むことは私にとって自然な選択でした。また、私が通っていた学科は4年制だったので、卒業後は大学院に進学し、修士の2年を経て製薬企業などに就職する人がほとんど。博士まで進む人は少数派なのですが、私は研究が楽しかったので、博士課程(編集註:博士後期課程。以下同じ)に行ってみようかなと考えるようになりました。
学部4年+修士2年+博士3年の計9年間、同じ大学に通うのは長すぎる気がして。大学院は外に出てみようと考えました。創薬で日本を世界一にすることに貢献できる研究室に行きたいと思い、大阪大学薬学研究科の分子生物学分野を志望しました。
最初はちょっと怖かったです。地元の長崎では電車が1本しかなかったのに、大阪にはたくさんの電車が走っていて、初めて見学に来るときは無事に辿り着けるかさえ不安でした。心配しすぎて、約束の3時間前には到着してしまったくらいです(笑)。でも、不安はあったものの、それよりもここでチャレンジしてみたい気持ちのほうが勝っていたんだと思います。

修士課程(編集註:博士前期課程。以下同じ)を修了し、博士2年生のときに中途退学という形で助教になりました。実は、博士課程を終えたら製薬企業の研究職として就職するつもりだったので、2年生の秋冬には就職活動をしていたんです。そんなときに「助教になって大学に残らないか」と当時の指導教員から声をかけていただいて。
お声がけいただくまでは全く考えていませんでした。でも、今の環境が好きなので、このまま継続して研究活動ができるなら、チャレンジしてみようかなと。それに、今いる研究室で助教になれるチャンスなんてもう二度とないだろうと思ったし、アカデミアから企業に転職するという選択肢もあるので、それなら今しかできないことに挑戦しようと思いました。
本当にそうですね。自分の近くにいる、「この人を信じてみようかな」と思える大人からもらった言葉に乗っかるというか。「この人が言うんだったら、その言葉を信じてひと頑張りしてみよう」と、自分が進む道を決めてきたように思います。
一番の相談相手は家族、特に母ですね。どんなときも反対せず、基本的にいつも全肯定してくれた母には感謝しています。家族以外では、例えば研究のことだったらこの人、プライベートのことだったらこの人、などその分野で「すごいな」「かっこいいな」と思える先輩に相談することが多かったです。

一言で表すなら、「よく効く安全な薬を作るための研究」です。どんな薬も、飲んでから効くまでの間に、必ず肝臓を経由します。そのため、新薬を作る際には肝臓の細胞を使って代謝や毒性を評価する必要があります。つまり、肝細胞を安く大量に作ることができれば、薬を評価する試験の時間とコストを削減し、良い薬をより早く効率的に開発することができるんです。私は、ヒトiPS細胞技術やオルガノイド培養技術を駆使して新たな肝細胞モデルを開発し、創薬や再生医療への応用を目指しています。
※ヒトiPS細胞技術:体内のあらゆる細胞に分化させられる多能性幹細胞(iPS細胞)を利用する技術
※オルガノイド培養技術:幹細胞などを培養し、臓器に似たミニチュア組織(オルガノイド)を作る技術
私が薬を1個作るだけでは、日本は世界一になれない。でも、薬を早く作る方法が確立できれば、一位に貢献できるんじゃないかと思ったんです。私の目標は大学1年生のときからずっと、創薬で日本を世界一にすることなので。
18歳のときの私は、新薬開発の大変さがまだあまり理解できていなくて。創薬国のランキングを見て「日本はあと一息で一位になれるやん」と思っていました(笑)。今はもちろん、その大変さや難しさを理解しています。でも、日本の企業や大学が持つ技術やノウハウは素晴らしいし、世界一になれる可能性もあるはずだと信じています。今研究が進んでいる段階の薬も、自分がおばあちゃんになったときには飲めるかもしれないと思うと、楽しみになりますよね。
研究者って、論文を出したら何十年先までも残るので、いつか私の子どもや孫が検索したら読むことができる。そのときに「おばあちゃん、ダサい」と思われたくないし、「自分はこの研究をしたんだ」と自信を持って言いたい。未来の研究者たちに恥じない研究をしたいですね。そのためにも、自分自身が常にワクワクした気持ちで取り組めることが一番大事だと思っています。

産休・育休を経て復帰して、もうすぐ1年になります。子どもが生まれる前は、20時か21時くらいまで研究室にいることが多かったですが、今は17時には保育園にお迎えに行く生活です。裁量労働制で勤務時間は決まっていないので、ときには子どもを家で寝かしつけてから研究室に戻ってくることもあります。家から大学までは20分ほどの距離で、保育園も学内にあるので、とても助かっています。
妊娠中で体調が優れない時期や、産休・育休を取っている期間に、研究支援員制度を活用しました。出産や育児、介護などのライフイベントに直面している研究者向けの制度で、大学院修了者や学生を研究支援員として雇用し、研究をサポートしてもらうことができます。この制度があったおかげで、研究が思うように進まないストレスや葛藤、誰かに仕事をお願いする申し訳なさが軽減され、気持ちの面でずいぶん楽になりました。

やっぱり理系は女性の人数が少ないですし、子育てしながら研究している女性の先輩も周りにいないので、「どうやって時間をやりくりしたらいいんだろう」と悩む場面もあります。それでも、「絶対にできる」と自分を信じてやるしかない。私は三姉妹の末っ子で、とんでもなく負けず嫌いなんです(笑)。だから、性別に関わらずとにかく誰にも負けたくないっていう気持ちは根本にあると思います。
いつだって自分が成長できるほうの選択をしようと思っています。失敗も成長、成功も成長。チャレンジして、成長して、また新たなチャレンジをする、そのサイクルを回し続けたいです。最近は、その成長サイクルを自分だけでなく周りの人たちにも還元したいという気持ちが強くなってきました。研究室にいる学生たちが成長できる場所を提供していきたいし、彼らに「かっこいい」と思ってもらえるような存在でいたいですね。自分も少しは教員らしい考え方になってきたのかなと思います。
私も進路を決めるときは自信がなかったけれど、自分の選択を後悔しないように、やると決めたからには絶対にやり抜きたいという気持ちで頑張ってきました。中学生や高校生なら、まだ自分に自信がなくて当然だし、迷ったり悩んだりして当然。そんなときは、自分が信じたい人、かっこいいと思える人の言葉に耳を傾けてみてください。その言葉を信じて頑張ってみることで、新たな道が開けるんじゃないかと思います。

受験生の頃、勉強しながらチョコレートをよく食べていました。母がお弁当の袋に入れてくれると、すごくうれしくて。テストの日は1科目終わるごとに1粒ずつ、大事に食べていましたね(笑)。
今も研究の合間に、チョコやグミを食べることが多いです。お昼休みや休憩中に、研究室の学生たちと実験の話やプライベートの話など、あれこれおしゃべりするのがリラックスできるひとときです。
